LOGIN車内の空気がすっかり穏やかになった頃、窓の外に緑の教会が見えてきた。曲がり角をひとつ越えれば、もう別れの時が来る。
「……もう着いちゃうのか」 ポツリと呟いた私に、運転席からお父さんの声が返ってくる。 「莉愛、寂しいのかい?」 からかうような笑い混じりの口調だったけど、私は小さく頷いた。 「……うん。寂しい……」 その時、右手にふわりと伝わってきた、優しい温もり。目を向けると、カナタがそっと手を重ねてくれていた。 『……また月曜日ね』 静かに告げられたその声は、機械混じりだけど、柔らかくて優しかった。それだけで、胸の奥がキュッとして、何だか泣きたくなる。 『中等部の制服も、届いたら着ないとね。羽織のサイズ、直さなくて済むといいね』 カナタの言葉に、私は小さく頷く。 「うん、そうだね。……カナタ、中等部でも、仲良くしてくれる?」 『もちろん。……こちらこそ、よろしくね』 その返事は迷いのない真っ直ぐな言葉で、私はまた少し安心した。 「カナタ君は、本当に莉愛と同い年かな?」 ハンドルを握りながら、お父さんがクスッと笑う。その言葉に、私も思わず笑ってしまう。 確かに、時々不思議に思う。カナタは、同い年とは思えないくらい、静かで、大人びていて……だけど私にとって、一番近くにいてくれる大切な友だち。 車が緩やかに坂を登り切ると、窓の外に、見慣れた建物が見えてきた。まるで植物の庭園のように、道の両側には色取りどりの草花や薬草が植えられていて、静かに風に揺れている。 その奥に建つ教会の屋根には、七芒星を描いた丸いステンドグラスがはめ込まれ、内側から溢れる光を受けて、優しく煌めいていた。 車が門の前で止まると、お父さんが静かに声をかけた。 「はい、着いたよ」 『……ありがとうございました』 カナタが丁寧に、お父さんに挨拶をする。そして、私の顔を心配そうに見つめる。 私は”大丈夫だよ”という気持ちを込めて、笑ってみせた。 「……また月曜日に会おうねっ」 『……うん』 カナタが車のドアを開けて降りる。さっきまで握ってくれていた手が、離れた途端に冷たくなったように感じて、少しだけ胸が痛くなる。 私は窓を開けて、手を振る準備をする。外の空気は冷んやりしていて、薬草や沈丁花の優しい香りが、どこか懐かしい気持ちを運んできた。 『「バイバイ」』 ふたり同時に声を重ねて、パチンと手を張り合う。私たちの、さよならの合図。その一瞬が、いつまでも続けばいいのに。そんなふうに思った。 車がゆっくりと動き出す。カナタの姿がだんだんと小さくなっていく。だけど、カナタはずっと手を振っていてくれていた。 見えなくなるその瞬間まで、まるで私の気持ちを包むように。 カナタの姿が完全に見えなくなってから、私はそっと窓を閉めた。外の風の香りと、少しだけ残っていた温もりが、ゆっくりと車内から消えていく。 「本当に、二人は仲がいいんだね」 お父さんがそう言って、ふっと笑った。 「……うん」 私は少しだけ言葉を溜めてから、ポツリと続けた。 「お父さん……少し前までは、カナタとバイバイしてもこんなに寂しくなかったのに。どうして、今日はこんなに寂しくなっちゃうんだろう?」 ほんの数ヶ月前までは、あっさりと「またね」って言えていた。何の不安もなく、すぐに会えるって信じていた。 なのに今日は——言葉にできないモヤモヤが、胸の奥をギュッと締めつける。 「うーん、そうだな……もうすぐ中等部に上がるからじゃないかな?」 お父さんは、赤信号で車を止め、ゆっくりとした声で言った。 「中等部からは学園都市での生活だからね。寮での生活になるし、今まで見ていた世界がガラッと変わる。莉愛はきっと、その変化を少しだけ感じ取ってるんだろうね」 「そんなに、変わっちゃうの……?」 「変わるよ。常盤町だけじゃなく、色んな町から人が集まってくるからね。考え方も違えば、付き合い方も違う。自然と、色んなことが変わっていくものさ」 その言葉を聞いて、私は急に怖くなった。私が、私じゃなくなっちゃったらどうしよう。カナタが、知らない誰かになってしまったらどうしよう。 そんな心配を読み取ったように、お父さんは続けた。 「でもさ、カナタ君は『中等部に行っても仲良くしてくれる』って言ってくれたじゃないか。今は、その言葉を信じてみてもいいんじゃないかな?」 そういえば、あの時の私は、自分でも驚くくらい不安になって、あんなことを聞いてしまった。カナタの言葉に安心したくて、本当はずっと怖かったのかもしれない。 「それにね、変わるって、悪いことばかりじゃないよ」 お父さんの声が、優しく包み込むように響いた。 「新しい友達ができたり、今まで考えたこともなかった世界が見えたりもする。だから、変わることを、そんなに恐れなくて大丈夫だよ」 私は、少しだけ目を閉じた。お父さんの言葉は、まだ答えの見えない不安の中に、小さな明かりを灯してくれたような気がした。 「さっ、早くお母さんを迎えに行こう。教会から駅までは近いから、すぐ着くよ」 お父さんが明るい声でそう言うと、信号が青に変わった。ほんの少しアクセルを踏み込むと、車は滑らかに動き出し、夜の街を静かに走った。 お母さんは、浅葱《あさぎ》街にある青の教会で働いている。そこは、静かで柔らかい雰囲気の教会。お母さんはその教会で、心の相談に乗るカウンセラーをしている。 これから迎えに行く、お母さんのことを思い浮かべた。優しくて、ちょっとだけ涙もろい、でもすごく頼りになる人。きっと、今日も誰かの心を癒していたんだろうな。 車内には、ラジオから流れる穏やかな音楽と、エンジンの低い音だけが静かに響いていた。お父さんはハンドルを握りながら、時折ミラーを見て、こちらに微笑みかける。 「もうすぐだよ」 その声に、私はまた窓の外に目を向けた。夜空は薄雲に覆われていたけど、月の光がその隙間から溢れていて、ほんの少し幻想的な風景を作っていた。 やがて、見慣れた石畳の広い道が見えてきた。街灯に照らされた通りを少し曲がり、車がロータリーに入った時、駅の出入り口の柱のそばに見覚えのある人影が見えた。 「——お母さんだっ!」 思わず声が弾む。グレーのロングコートに身を包み、ネイビーのマフラーを首元に巻いたお母さんは、ブラウンの編み上げブーツのつま先を寄せて、小さく肩をすくめながら立っていた。 寒さに耐えながら、それでも柔らかな雰囲気で、こちらを待っている姿。 停車スペースに車が滑り込むと、私たちに気付いたお母さんが、パッと表情を明るくした。目を見開き、笑顔を浮かべて手を振りながら、小走りで車に近付いてくる。 私の隣のドアが開いた瞬間、私は身を乗り出してお母さんに抱きついた。お母さんのコートは少し冷たくて、ほんのりと冬の空気の匂いがした。 「お母さん、お帰りなさいっ!」 「ただいま。莉愛も迎えに来てくれたの? ありがとっ」 お母さんの腕が、柔らかく私を包み込む。その温もりに、心の奥がじんわりと温かくなっていく。 「おかえり、お疲れ様。待たせちゃったかい?」 お父さんが運転席から声をかける。 「んー、五分くらいかな? 全然待ってないよ。お迎えありがとうございます」 お母さんが微笑むと、車は静かに動き出した。街の灯りが車窓に流れていく中、私は待ちきれずに口を開いた。 「ねぇねぇ、お母さんっ。そろそろ制服と羽織が届くんだって! 届いたら着てくださいって!」 「もうそんな時期なのね。届いたらちゃんと着てみようね」 「あとね、今日ね、学校終わってからカナタが家に来てくれたの! 宿題も終わったよ!」 「まぁ! 偉いわねぇ。全部ひとりでできたの?」 「カナタに少し教えてもらったのっ。カナタ、教えるの上手なんだよ!」 今日あった嬉しいことを伝えたくて、声が自然と大きくなる。でも、お母さんは笑顔で頷いてくれる。その優しい眼差しに、心がほぐれていく。 お父さんも、運転しながら時折こっちを見て、小さく笑ってくれた。前を見据える横顔はどこか安心感があって、静かに寄り添ってくれているような気がした。 そして、家には兄の利玖がいる。頭が良くて優しい自慢のお兄ちゃん。私が宿題に悩んでいると、何も言わずにそばに来て教えてくれる。 この家族がいてくれるから、私は今日も楽しくて、嬉しくて、こんなに胸がいっぱいになる。 車が交差点を曲がった時、お父さんが笑って言った。 「さぁ、急いで帰ろう。仁奈さんが美味しいご飯作ってくれてるし、利玖も待ってる」 その言葉に、胸がキュッと温かくなった。 夜の街を包む風は冷たいけど、車の中には優しい温もりが満ちている。 家に帰ったら、きっといい匂いがしていて、テーブルには温かいご飯が並んでいる。仁奈さんの手料理。 そして利玖の静かな「おかえり」。そんな光景を思い浮かべながら、私は窓の外の夜空を見上げた。 星がひとつ、瞬いていた。お父さんとお母さん、私とカナタの四人でゆっくりと校門へ向かって歩いて行く。 道の両脇では、桜が疎《まば》らに咲き始めていた。まだ満開には程遠いけど、淡いピンクが所々枝先を彩り小さな春のトンネルを作っていた。 入学式の頃には、あの花たちも全部咲いているのかな。そんなことを考えながら歩いていたら、ふと視線の先に詩乃ちゃんが見えた。 誰かに手を振って帰って行った。相手は門の柱に遮られてよく見えない。 もう少し近付いたところで、ようやく相手の姿がはっきり見えた。 ——拓斗だった。「あらっ、どうも先程ぶりです」 お母さんが拓斗のお母さんとお父さんに声をかける。 向こうも笑顔で応じて、お喋りが始まった。何となく私たち三人は、横並びになると、私は拓斗に話しかけた。「……拓斗って、詩乃ちゃんと仲良かったっけ?」「……別に。普通に話すくらいだろ」 あっさりした返事。でも私の中では少し引っかかった。二人が一緒にいるところなんて、今まで見たことなかったから。「ふ〜ん……」 気にしない振りをしながらも、何となく視線を拓斗の方へ送ってしまう。 その時、不意にお父さんが私を呼んだ。「莉愛、ちょっと来てくれないかな?」「えっ」 写真を撮る場所の確認みたいだった。でも私は、思わず声を漏らしてしまった。 今ここを離れたら、カナタと拓斗が二人きりになってしまう。今は取り巻きがいないけど、あまり二人きりにしたくなくて、離れたくなかった。 でも、そんな私の気持ちを汲んだように、カナタが静かに言った。『……大丈夫だよ、莉愛』 その瞳は穏やかで、少しだけ背中を押してくれるような優しさがあった。 拓斗の親もいるし、きっと変なことにはならない。それは分かっていたけど、それでも何だか落ち着かない。「……分かった。ちょっと行ってくるね」 私はカナタにそっと言い、後ろ髪を引かれたまま、お父さんのところに向かって歩き出した。「一人で撮る時は、こっち側かなぁ。二人で撮る時は……くっついて撮るか、真ん中を挟むか……」 お父さんは、校門のそばに立てられた“卒業式”の看板の横に私を立たせて、独り言のようにぶつぶつと呟きながら、撮影の構図を考えている。 私は素直に従いながらも、目線だけは少し横に向けていた。 ——カナタと拓斗。あの二人が今、どうしているかが気になって仕方な
驚きの余韻がまだ教室の空気を支配していた。 クラスメイトたちは口を半開きにしたまま硬直し、お母さんたちもただ呆然と立ち尽くしていた。まるで現実と夢の間に取り残されたような、そんな沈黙が流れる。 その静かな空間を現実へ引き戻したのは、ゆっくりと開く教室の扉を開けた先生だった。 袴姿の先生が入ってきた瞬間、今私たちは卒業の日だったことを思い出した。 前に立った先生の目元は、ほんのり赤く滲んでいるように見えた。「お待たせしました。……それでは…..最後の学活をしたいと思います」 “最後の学活” その言葉に、教室の空気がふっと張りつめた。ざわざわと心が揺れて、言葉にならない思いが胸の奥で波打つ。 本当に、これでおしまいなんだ——その実感が、ようやくみんなに降りてきた。「先生、昨日フライングして色々喋っちゃったので、今日は何を話そうかずっと悩んでいたんです。でも……やっぱり、みんなには、感謝しかありません」 先生は静かに目を閉じて、少しだけ微笑んだ。その表情は、過ぎ去った日々を胸の中で辿っているように見えた。「実は先生、一年生から六年生まで担任を続けられたのは、みんなが初めてなんです。産休や育休で、途中の学年を受け持ったことはあります。でも…本当に、一から卒業まで見届けたのは初めてでした」 声は時々掠れながら、真っ直ぐ私たちに向けられていた。「だから、毎年毎日、たくさん悩みました。落ち込んで、不安で……。それでも、みんながいてくれたから、前を向けました」「みんなは、優しくて、強くて、やんちゃで……時にはぶつかったこともあったけど、私はそんなみんなが大好きです。……私は……まだまだ未熟な教師です。でも……そんな私を、みんなが支えてくれました」 抑えていた感情が、先生の瞳から零れ落ちる。教室のあちこちから、啜り泣く声が静かに広がっていく。 私の目にも、涙が溢れてた。 それでも、先生は最後まで言葉を止めなかった。「私を……みんなの先生にさせてくれて……ありがとうございました」 先生が、教卓にぶつかってしまうのではないかと思うほど深々と頭を下げた、その瞬間だった。 教室の空気がふわりと柔らかく、だけど胸の奥がキュッと締めつけられるような、温かくて切ない何かで満たされていくのを感じた。 誰もがそれを言葉にはしなかった。ただ、心の波紋がひとつ
体育館を出ると、先生の後に続いて廊下を静かに歩いていく。歩く度に鳴る小さな靴音が、どこか名残惜しそうに響いていた。 この後、卒業生と保護者が揃って、校舎の前でクラスごとの記念撮影がある。 前の方に俯きながら歩く詩乃ちゃんが見えて、私は思わず駆け寄った。「……詩乃ちゃん」 泣いてるかと思って顔を覗き込むと、目元に少し涙の跡と、潤んだ瞳があった。 それだけで、泣き出しそうなのを踏み止まったんだなと思えた。「……えへへ」 泣きそうになってるのがバレちゃったからか、詩乃ちゃんはちょっと照れくさそうに笑った。 その顔が何だか可愛くて、私も少し笑ってしまう。 どうしたら元気が出るかなって考えて、私はそっと右手を伸ばして詩乃ちゃんの左手を繋いだ。 お互いの、生身の手同士。温かさがじんわりと伝わってきて、それだけで胸の中が少しほぐれる気がした。 最初、詩乃ちゃんは少しビックリしたみたいに目を丸くしていたけど、すぐにふわっと笑ってギュッと握り返してくれた。 私たちは手を繋いだまま、一緒に校庭に向かった。 靴を履き替えて正面玄関を出ると、校庭の真ん中には、すでに撮影用の椅子がずらりと並べられていた。 順番が来るまで邪魔にならない場所で、自分のクラスごとにまとまって待機する。 詩乃ちゃんと私は、手を繋いだままその場に立っていた。繋いだ手の温かさが、もう少しで卒業式が終わってしまう寂しさを和らげてくれる気がして、離す気にはなれなかった。 そこへ、カナタがふらりと近付いてくる。『ん……手、繋いでどうしたの?』 その問いかけに、私は胸を張って笑顔を返した。「ん〜? 詩乃ちゃんのことが大好きだから繋いでるのっ!」「そっ! 両思いなのっ!」 私たちは、まるで自慢でもするみたいに、ギュッと繋いだ手を見せびらかした。 カナタは無表情のまま、それをジッと見つめていたけど、その様子が何だか可笑しくて、詩乃ちゃんと私は顔を見合わせて笑った。「よっ! カナタ。制服、違和感ないな」 背後から軽やかな声が響いて、振り返ると利玖が立っていた。みんなよりも背が高く、自分たちとは少し違う制服姿の利玖に、周囲の子たちの視線が集まる。 高等部の生徒を見ることなんて滅多にないから、それはそれは目立つ。「あれ? お母さんたちは?」「何か、保護者向けに先生たちが説明してた
廊下を歩いていると、他のクラスの友達とすれ違い様に手を張り合ったり小さく笑い合ったりした。 だけどその度に、やっぱりカナタの姿はどこにも見えなくて胸の奥が静かにざわついた。 ——きっと遅れてるだけ。そう自分に言い聞かせながら、私は体育準備室に向かった。 体育館へ続く渡り廊下に出ると、目の前に広がる空は雲ひとつなく澄みきっていて、春の陽射しが優しく降り注いでいた。 私が一番乗りかな? そんなことを思いながら角を曲がると—— その先に、中等部の制服を着た三人の姿が見えた。 そして、その中のひとりと視線が重なる。 見慣れた黒髪が、春の日差しを受けてほんのりと緑がかった光を帯びていた。少し吊り気味で、鋭くもどこか物憂げな眼差しだけど、優しさを含ませた目元。そして無機質な黒い鋼鉄のマスク。「カナタっ!」 自然と声が溢れて、私は思わず駆け足になっていた。「ん? あ、莉愛だ」「ほんとだっ、おはよ〜!」 その場にいたもう二人も、私の声に気付いてにこやかに挨拶してくれる。「おはよっ!」『おはよ』 私は手を振りながら笑って返す。心が一気にほどけていくのを感じた。カナタも短く返事をしてくれた。 その一言が嬉しくて。会えた喜びとさっきまでの不安と駆け足で近付いたせいとが一緒になって、心臓がドキドキしていた。「教室にいないから、ビックリしたよ! 三人共、どうしたの?」 私が尋ねると、男の子が肩をすくめて言った。「いや〜、珍しくリョク様の支度が遅れてさ〜」「ね。うちらはいつも通りに、準備終わってたんだけどね」 もうひとりもそう付け加えてくれて、ようやく胸を撫で下ろした。何かあったわけではないようだった。「事故でもあったのかって、心配しちゃったよ〜。あ、そうだ、八時五十分までに体育準備室集合だって! なるべくクラスでまとまっててくださいって」「そっか。じゃあ行こうか」「先に行ってるね〜」 二人は手を振って、軽やかに歩いて行ってしまった。すると私とカナタだけが渡り廊下に取り残される。 カナタと目が合った。私と同じ羽織にワイシャツ、ダークグレーのスラックスに黒い革靴。いつもより少し背筋が伸びて見えるその姿に、胸の奥がキュンと鳴る。こんなふうにドキドキするのは初めてかもしれない。 それを誤魔化すように、私はお父さんとお母さんに見せたみたいに、く
車が学校の駐車場に滑り込むように停まった。見渡すと、もう他の家の車も並んでいた。 時計を見ると、まだ八時五分。集合時間にはまだ時間があるけど、やっぱりみんな考えることは似ているらしい。 車のエンジンが止まってドアのロックが開く音が聞こえたから、私は車のドアを開けて降りた。朝の空気はまだ少し冷んやりしていて、長い袖が風に揺れた。 後ろでドアを閉めた利玖がちょっとぐったりした様子でいることに気付いて、私はすかさず声をかけた。「やっぱり酔ったでしょ」「卒業式が始まる頃には治るさ。……多分」 利玖は軽く口角を上げて返してくる。うん、冗談が言えるなら大丈夫だ。「それじゃあ、校門から入ろうか」 お父さんが車に鍵をかけながら、みんなを促した。お母さんは小さく頷き、私は深呼吸をひとつして、通い慣れた校門へと歩き出した。 今日はいつもと違う。制服も、気持ちも、全部がちょっとだけ大人びている。 正面玄関へ足を踏み入れると、袴姿の先生たちが並んで立ち、にこやかに「おはようございます」と声をかけてくれる。 みんなの胸元には、綺麗な白いリボンのようなものが付けられていて、いつもとは違う雰囲気。少しだけ背筋が伸びる。「おはようございます」 私がペコリと頭を下げると、その中のひとりがパッと顔を明るくして声を上げた。「はいっ、莉愛さん、おはようございます! 卒業おめでとうございます」 見覚えのあるその声に顔を向けると、雷斗《らいと》先生だった。利玖の初等部時代の担任の先生。背が高くていつもエネルギッシュで、どこか“お兄ちゃん先生”って呼びたくなる雰囲気の人。 雷斗《らいと》先生が私にピンクのリボンのバッチをくれた。そして私の隣にいた利玖の顔を見るなり目を丸くする。「えっ! 利玖か! うわっ、背ぇ伸びたなー! ……どうした? ぐったりして」「……ちょっと酔った」 利玖がむにゃっとした声で応えると雷斗《らいと》先生は大きく笑った。「はははっ! 卒業式が終わるまで座ってな! 莉愛さんのお父さんお母さん、本日はおめでとうございます」 さっきまでの砕けた口調から一転、きちんと背を正して、お父さんとお母さんに丁寧に頭を下げる。その切り替えの早さに、ちょっとだけ笑ってしまいそうになった。 お父さんとお母さんもにこやかに「ありがとうございます」と返して、互いに頭を下
「莉愛は、どこの寮になるのかしら? 入学式が楽しみねっ」 お母さんの声が背後からふわりと届く。お母さんが丁寧に私の髪を梳かしている。櫛が髪を通る度に静かな音がして、その度に髪が整えられていく。鏡越しに目が合うと、お母さんはニコッと笑った。「十二個も寮があったら、カナタとは離れちゃうかなぁ?」 お母さんと利玖に問いかけてみると、部屋の勉強机に腕を組んで寄りかかっていた利玖がふっと笑った。「いや〜、そもそもカナタと莉愛は別の寮だろ〜」 利玖が肩をすくめて笑いながら口を挟む。あまりにも当然のように言うものだから、私は思わず頬を膨らませて口を尖らせた。「ん〜、カナタは卯月寮か文月寮とかじゃないかな? 莉愛は〜……如月寮か弥生寮か……水無月寮とかかな?」 それぞれの寮に特徴があるのか、顎に手を当てて予想する利玖の声にお母さんもクスッと笑う。「お母さんも、如月寮じゃないかって思ってるのよねぇ」 お母さんが私の髪を整えながらそう言った。柔らかな声に何だか胸がドキドキした。 未来のことはまだ分からないけど、名前だけでこんなにも想像が膨らんで楽しくなるのは、きっとこれが「はじまり」の前だからだ。「さぁ、出来ました。回って見せて」 お母さんが少し後ろへ下がりながら、嬉しそうに手を叩いた。私はその場でくるりと二度、軽やかに回って見せる。長く仕立てられた袖が空気を含んで、ふわりと舞った。「うんっ、素敵ね」 お母さんの頬が緩む。その笑顔を見て、胸の奥がふっとくすぐったくなった。嬉しくて、でも何だか照れくさくて落ち着かないような——そんな、こそばゆい気持ちが心の中をクルクル回る。「中等部の話もワクワクするけど……今日は初等部の卒業式だからね。最後の校舎に、きちんとお別れと感謝を伝えないと」 お母さんの言葉に、私は通い慣れた校舎を思い出してみる。 歩き慣れた廊下。教室の景色。いつもと違う服を着た今、あの場所にもう一度立つことが、少しだけ特別に思えた。「それじゃあ、お母さんも着替えて準備してくるから、二人共リビングで待っててくれる?」「「はーい」」 二人で返事をして部屋のドアへ向かうと、利玖もその後に続いた。 二人で並んでリビングへ向かうと、そこにはフォーマルな黒色のスーツに身を包んだお父さんの姿。常盤色のネクタイを器用に結んでいる最中だった。 ふとこ